• ああ、あの頃は-3 【歯界時報 2001年11月 No.559】

    “Soon be to de end,massa,———–o-o-o-o-oh! Lor-gol-a-marcy!(Load God have mercy upon me!)What is dis here pon de tree?” “Well!” cried Legrand,highly delighted,”What is it?”(じきに先ですだ、旦那様——ややや、やや!南無三!こりゃ、一体、この樹の上になんじゃろ、こりゃ?」「ふうん!」レグランドは大満足。「なあんだな」)——エドガー・アラン・ポーの小説こがね虫の一説である。黄金色の美しいこがね虫を携えて、誰もいない月夜の晩に深い森の中で、途方もなく大きなゆりの木に召使の男が登って行くところである。

    子供の頃、途方もなく美しい甲虫がその上を数多く飛び回っている、珍しい大木があった。それが一体何の木だったのかは分からない。この木のことを思い起こすと小説こがね虫の一説を思い浮かべてしまう。

    美しい甲虫とは玉虫である。夏の強い光の中で虹色の美しい羽を広げたまま、目の前を掠め飛んで行くきらびやかな姿を何度目にしたことだろう。小生が生まれ育った町の外れに多くの寺院が寄り集まった寺町と言うところがある。その中にある広大な墓地の敷地の片隅にその木はあった。

    長い捕虫網を持ち大きな墓石の上に乗っても、玉虫の止まっている枝葉には届かない。そこで竹竿を接いで長くして玉虫を網に入れようとするが、接いでいる部分がぐらぐら動いて思うように虫を捕まえることが出来ない。捕まえそこなった玉虫は危険を察知して空高くどこかへ飛び去っていった。うまく網に入れても、余りに高いので地面に下ろしている間に網から這い出して逃げられてしまう事が幾度となくあった。だから多く捕まえても四、五匹というところであった。生け捕りにされた玉虫は死んでしまってもその美しい光沢を辺りに放ちつづけた。それは少年にとってはかけがえのない宝物であった。

    高校生になって、その木のすぐ隣にある寺が若くしてこの世を去った幻想的洋画家古賀春江の生家であった事を聞かされた。おそらく病弱だった春江少年は、華々しく飛翔する玉虫を目で追いながら天賦の才能の一片を育んだのではないだろうか。小生の想像であるが。

    玉虫が乱舞していたこの巨木はいつの日か切り倒されて、今ではその面影は全く残っていない。
    その場所は新しくなった納骨堂へ続く道路に姿を変えてしまった。

    その面影は小生の心の奥深くに息づいているだけである。

  • ああ、あの頃は-2 【歯界時報 2002年7月 No.567】

    学校の中庭やら公園でさかんに投げ独楽で遊んだ。小さい独楽もあれば、大きな独楽もあった。

    ルールは簡単で、ともかく土の上で回っている独楽に自分の独楽を綱を使って回し投げてぶつけて相手を倒せばよいのである。

    うまく投げれば勢いよく回っている独楽を一発で倒すことができた。それはそれは快感であった。カッコよかった。一撃を食らった独楽はバランスを崩して腹を回転でこすりつけながら転がっていった。頭には消しようのない傷の穴が付いていた。
    「畜生、やりやがったな」

    相手の独楽をやっつけると、次の独楽が投げられて回っている独楽をやっつける。そうやって何時間も遊んだ。

    小型の綺麗な独楽は土の上で勢いよく回っていた。それをしめしめとばかり大独楽が狙う。小型の独楽の子供は大独楽の狙いが外れるように「はずれろ、はずれろ」と手を合わせて祈っている。大独楽が投げ下ろされた。みんなどっと笑った。ど真ん中に一撃を食らった小型の独楽は何と土の中に埋まってしまって、すでにご臨終であった。
    「くそー、やりやがったな」

    大独楽は力があって強いが無敵と言うわけではない。地面に力強く回転しながら静止している王者のような大独楽は最初は他の独楽を寄せ付けないが、しばらくすると力が衰えてきて左右にふらつき始める。

    その隙を狙って小さな独楽で大独楽をやっつけるのが、これまた快感であり、粋であった。

  • ああ、あの頃は-1 【歯界時報 2001年11月 No.559】

    街中を車で通っている時、赤信号で停車していると、左手の古びた家並みの中に**木工所という看板を見つけた。玄関の木のガラス戸は古ぼけて煤けており、柱は少し傾いていて下の土間との継ぎ目には赤く錆びくれた鉄の接ぎ当てがしてある。一寸ほどあいたガラス戸の隙間から一人の老いた職人が木片の中に埋もれて仕事をしているのが見えた。

    そうだ、子供の頃こんな木工所を何度か訪ねたことがあった。投げ独楽を作ってもらうためだ。

    あの頃、子供達は自分の好きな独楽を作るためにまずボロヤとかバタヤとか呼んでいた廃品回収業者のところへいって、高さが10メートルもある不燃物のガラクタの山の中から錆びくれた自動車のベアリングを探し出し、何十円か払って家に持ち帰った。

    固い石の上で大釘と金づちで叩いてベアリングのボールを外して、金属の輪だけにするとそれをペーパーなどでよく磨いてぴかぴかにした。

    それから颯爽と自転車に乗ってロクロヤと呼んでいた木工所に行ってこのベアリングにぴったりの独楽を作ってもらった。旋盤のような機械の上には大きなゴムベルトが天井から張ってあって、適当な大きさの木片を木槌で叩いて固定すると、ゴムベルトが回りだし固定した木片も回りだした。それを木工所のおっちゃんが盤のような鋭い刃を使って削りだしていく。ほんの数分で見事な独楽が出来上がった。二百円ほど払って家に持ち帰り、独楽の大きさに合う鉄製の根を独楽の尻に真っ直ぐに打ち込んでやる。打ち込みが終われば、投げ独楽の出来上がりである。

  • メデューサ号の筏 【歯界時報 2001年8月 No.556】

    1819年画家ジェリコーによって描かれた波間に漂うあの筏の絵を中学高校の頃から何回目にしたことだろう。しかしこの筏に描かれた人々がどういう人達なのか長い間何も知らずにいた。

    最近になってジェリコーがこの絵に中に何を描いたのかを知ることが出来た。無知であったことを恥ずかしいと思うと同時に、深い感銘を受けた。

    ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れて、セント・ヘレナ島へ流された1816年、フランスは新植民地セネガルへ移民団を送り込むことになった。軍艦メデューサ号に乗せられた移民三百数十名は、数十名の将兵に守られて一路セネガル目指して出発した。ところが、出船して十数日経った頃、本土から遠く離れた海の上で、突然兵の指揮官は移民団全員を甲板に集めて、「諸君はセネガルへの移民を信じてこの艦に乗ったと思うが、我々の目的は違う。我々はこの艦をセント・ヘレナへ向けるのだ。あの島で今捕らわれの身となっている先帝ナポレオンを何としてでも救い出さねばならない。今から直ちに我々の命令通りに動いてもらう」と言い出したのである。

    進路は一路南方セント・ヘレナへ向けられた。

    業を煮やした移民団の人々は、赤道祭りの日、酔いつぶれた兵士達に襲い掛かり縛り上げてしまう。しかし、船は暗礁に乗り上げて難破し海水が入ってきた。人々は数隻の救命艇に乗ったが、149名の人々は艦の破片で筏を作り、アフリカ西海岸まで引いてもらった。

    しかし、潮の流れが強く重い筏を引っ張っている救命艇は必死に漕ぐのだが、沖のほうに流されてしまう。
    「これではだめだ。共倒れになってしまうぞ。そうだ、筏は見殺しにして、ロープを切り放してしまえ・・・・」

    身軽になった救命艇は潮流を乗り越えてアフリカ西海岸に向かった。

    一方筏に取り残された人々は洋上遙かに漂いながら、二人、三人とつぎつぎに死んでいった。12日間漂流した末、アルギュス号に発見された時、生き残っていたのはわずか15人であった。

    この筏をキャンバスに書き残したのがジェリコーだったのである。

  • 体験悟性 【歯界時報 2000年6月 No.542】

    学生達が、マルクス・レーニン主義を掲げて騒いでいた頃、カントの純粋理性批判のような偉大な書物をがらくたのように謗ったレーニンの態度が私はたいそう嫌いであった。レーニンのような唯物史観では、私の好きな俳人松尾芭蕉の人間性など正当に位置づける事はできない。

    このような人間が作った国が長続きするはずがないと思っていたが、この大国は自ら崩壊し消滅していった。幸いなことであった。カントやヘーゲルの事を考えていた頃、私は体験悟性という言葉をよく使った。ア・プリオリな体験悟性は人間形成のうえで大きな役割をしているという事である。例えば、虫をつかまえて遊ぶ子供を考えてみる。子供は不用意に虫を傷つけやがて殺してしまう。そしてその虫の軀(むくろ)を見ながら子供は自分のしたことを知るのである。

    このような体験悟性を蓄積して、子供は基本的な人間性を獲得するのである。だから、一人の人間が出来上がるために、その何千倍何万倍もの虫や鳥や獣が存在していなければならないのである。

    この間、高校生の老婆殺害事件が起こった。
    この生徒は人を殺す経験がしたかったと悪びれずに言った。この生徒は明らかに体験悟性の形成に大きな欠陥があるのである。
    虫や鳥の姿が消えかかっている大都会で、このような子供は確実に増えていくのである。

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