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メデューサ号の筏 【歯界時報 2001年8月 No.556】
1819年画家ジェリコーによって描かれた波間に漂うあの筏の絵を中学高校の頃から何回目にしたことだろう。しかしこの筏に描かれた人々がどういう人達なのか長い間何も知らずにいた。
最近になってジェリコーがこの絵に中に何を描いたのかを知ることが出来た。無知であったことを恥ずかしいと思うと同時に、深い感銘を受けた。
ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れて、セント・ヘレナ島へ流された1816年、フランスは新植民地セネガルへ移民団を送り込むことになった。軍艦メデューサ号に乗せられた移民三百数十名は、数十名の将兵に守られて一路セネガル目指して出発した。ところが、出船して十数日経った頃、本土から遠く離れた海の上で、突然兵の指揮官は移民団全員を甲板に集めて、「諸君はセネガルへの移民を信じてこの艦に乗ったと思うが、我々の目的は違う。我々はこの艦をセント・ヘレナへ向けるのだ。あの島で今捕らわれの身となっている先帝ナポレオンを何としてでも救い出さねばならない。今から直ちに我々の命令通りに動いてもらう」と言い出したのである。
進路は一路南方セント・ヘレナへ向けられた。
業を煮やした移民団の人々は、赤道祭りの日、酔いつぶれた兵士達に襲い掛かり縛り上げてしまう。しかし、船は暗礁に乗り上げて難破し海水が入ってきた。人々は数隻の救命艇に乗ったが、149名の人々は艦の破片で筏を作り、アフリカ西海岸まで引いてもらった。
しかし、潮の流れが強く重い筏を引っ張っている救命艇は必死に漕ぐのだが、沖のほうに流されてしまう。
「これではだめだ。共倒れになってしまうぞ。そうだ、筏は見殺しにして、ロープを切り放してしまえ・・・・」身軽になった救命艇は潮流を乗り越えてアフリカ西海岸に向かった。
一方筏に取り残された人々は洋上遙かに漂いながら、二人、三人とつぎつぎに死んでいった。12日間漂流した末、アルギュス号に発見された時、生き残っていたのはわずか15人であった。
この筏をキャンバスに書き残したのがジェリコーだったのである。
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